物語を現実に

この現実世界が、ファンタジーのような感動にあふれた世界になりますように。

重症心身障害児を生むということ

 我々医療者が命の選別をしてはいけない。どの命も尊い。この大前提の中で話をする。

 産婦人科にいると、様々な医療的・社会的背景を持った患者に遭遇する。

 不妊治療の上ようやく子どもを授かる高齢出産の人。離婚調停をしながらおなかに赤ちゃんを抱えている人。妊娠がわかり高校中退してしまったカップル。

 色々な方がいる中で、ここ最近一番真剣に考えるのは、おなかの赤ちゃんが、重症心身障碍児の可能性が高いと診断された母親のことだ。

 

 最近は超音波検査の進化や、遺伝子検査の技術の発達により、先天的な障害を持つ子どもを早期に診断できるようになってきた。

 しかしそれゆえに、おなかの赤ちゃんが障害児と診断されたときの葛藤を、より強くしてしまった面もある。

 

 親は、誰しも最初は元気で健康な赤ちゃんを産みたいと望む。だれも最初から、障害を持った子どもを産みたいとは思っていない。

 また、障害を持つ子どもを一生かけて育てていく覚悟は、妊娠したときは誰も持っていないだろう。

 しかしいざ蓋を開けてみると、脳梁の低形成、視床癒合、脳室拡大など、明らかに重度の神経発達障害をきたし、一生を寝たきりで、医療的介護がフルに必要な状態で、しかも寿命は長く20年以上は生きられる、といった状態が予期できる子どもが生まれてくることがわかったりする。

 まだ寿命が短く、生まれてからすぐになくなってしまうほうが、ものすごく悲しいことだし決していいことではないけれど、親としては気持ちの切り替えがつくかもしれない。でも最近は医療技術の発達により、知的・精神的発達はほぼなく、完全介護状態にはなっても、長く生きられるようにはなってきている。

 

 日常生活において我々が見る障碍者というのはごく一部で、そういった人たちに遭遇したとき、ほとんどの場合は(本人たちが決して望んでいないにしても)かわいそうとか、あまり関わりたくないとか、そういう風に見てしまうことが多いのではないか。

 だからそんな障害を持った子を自分が育てる、当事者になる、といった事態は、あまりにも絶望的で、言葉を選ばなければ、最初は地獄のように思えるんじゃないかと感じた。

 

 実際に障害児を生むことになった親の対応や気持ちは様々で、全くもって一概には言えない。

 当然中絶する、子どもの顔を見たくない、一生付き合わされるなんて嫌だ、と思う親もいれば、すべてを受け入れて、一生をかけて育てていく覚悟を決める親もいる。

 母親だけでなく、父親も対応は様々で、いつも付き添ってきてくれる父親もいれば、ほぼ全く顔を出さない父親もいる。

 

 私はここで、中絶する、子どもの顔を見たくない、という母親・父親を全く責められない。気持ちは痛いほどわかる。一生涯、その子の介護や世話に追われるうえに、当初思い描いていたような普通の成長はとても望めないのだ。自分の人生をめちゃくちゃにされたような気持ちにもなるだろう。

 それでも法律的・倫理的に、妊娠週数22週を超えると中絶はできないので、そこを超えた場合は、泣こうが喚こうが生まないといけない。そうなったときの親の気持ちは一体どんなものなのだろう。考えたくもないほど悲しい。想像するだけで涙が出る。

 だからこそ逆に、一生かけて育てる覚悟を決めた親の強さには、本当にいつもいつも驚かされるし、尊敬する。

 

 重ねて言うが、私は子どもの顔を見たくない、生みたくないという親が弱いとは思わないし、間違ってるとも思わない。それは至極まっとうな反応で、まっとうな感情で、ごく普通のことだ。

 結果としてその親が育児放棄のような状態になった時に、子どもの観点からすればそれは許されないことかもしれないし、日本という社会では「親が勝手に生んだのに育てないとは何事か」とここぞとばかりに誹謗中傷を浴びせるが、それでもその親の、そのあまりに大きいその責任を、だれが無理に取れと言えるのだろうか。私はそんな親のことを責められない。

 

 私は小児科に興味があるし、命は尊重されるべきで、誰かが養育するべきで、子どもは社会として必ず守らねばならない。

 しかし、普通の成長は望めない、重度の発達障害の子どもが生まれる、それがわかってしまったとき、母親、父親のことを、きちんと考えられているのだろうか。医療者側も、それをきちんと気持ちを理解してあげられているだろうか。

 

 

 それだけ大きなことなのだ。