物語を現実に

この現実世界が、ファンタジーのような感動にあふれた世界になりますように。

人間は怠惰な生き物である

 友達の凄腕フリーエンジニアと会ってきた。そいつはとってもすごいやつで、色々なベンチャー企業のプログラミング面での支援をしたり、自分で課題を見つけてデータセットを作り、大企業に売り込むなど数多のすごいことをしている(ふわっとした表現で申し訳ないが、詳しく書くと特定されかねないため)。

 

 まあ別にそいつがすごいかどうかはともかく、面白いやつであることは間違いないし、話していて楽しいし刺激をもらえるので、隙があれば会うようにしている。

 さてそいつと今回会ってきて、一つ興味深い話を聞いた。

 「人間は怠惰な生き物である。だから、その怠惰を解決してあげるようなビジネスは大抵うまくいく」

 という話だ。

 最初はあまりピンとこなかったが、言われてみるとしっくりくる。確かに、就活のエントリーシートを書くのがめんどくさいし、情報を集めるのが大変だから、就活サイトはうまくいったし、掃除機も洗濯機も人間の怠惰を解決するものだし、本屋に行くのがめんどくさいからアマゾンも成功した。

 人間の怠惰を解決していくことがある意味今までの多くのビジネスのモデルであり、適切な仮説と適切なモデルを立てられれば、多くの物はうまくいっていた。

 

 これが自分のやりたいビジネスなどにどう当てはまるかはわからないが、この視点は常に持っていたい。逆に言うと、人間はよほどやる気があったりモチベーションがない限り、めんどくさいことができないということなのだから。

 

 ちなみにそいつの生き様も、自分が狭い世界から脱出しよう、と思わせてくれるに至ったやつである。負けずに頑張りたい。

リハビリを兼ねて徒然なるままに

 記事を書くのはだいぶ久しぶりになる。

 しばらく書いていないと、書くのがだんだん億劫になってくる。やはり毎日継続させる習慣という力はとても偉大なものであると実感する。

 ここ最近実家に帰省し、色々な人に会うなどし、自分のこれからの進路をじっくり考えていた。

 いつも危機感として抱えているのが、「人間が選んだ道を後悔しないように正解と思いたがる」というところだ。

 これは諸刃の剣である。というのも、基本的に後悔しないということはとてもいいことで、後顧の憂いなく前に進むことができる。

 しかし、挑戦しなかった道を選んだ時に、「いいんだ、この安定の道で。だって今不幸じゃない」と思ってしまう危険性、つまり、できるだけ安全な、安全な道を選んでしまう危険性をはらんでいる様に感じるからだ。

 事実私は、初期研修医を2年間やることすら悩んでおり、大学を卒業したらさっさと起業しようか、などと考えていた。でもさすがに医療のことが分かった気にはならなくて、せめて二年間、ないしは三年間はやろうと決めた。

 そうして今、私は迷っている。さらに専門医まで取るべきなのではないか、そういったたぐいのことだ。事実周りの先生にはそう勧められる。そりゃそうだろう。そうやって成功してきた人たちなのだから。

 私は初期研修医2年をやっていることについて、後悔はない。と感じている。しかしこれは本当に後悔がない選択だったのか?とよく思う。なんとなく張り合いがなかったり、やりたいことではなかったり、引っかかるところがたくさんあるのに、でもそんなに悪くないからと、「後悔はない、これで正解だった」と思い込もうとしているのではないかと。

 なのにさらに、ここから医者の道を突き進もうとしている。これは完全に、逃げの一手のように思い、しかしそれを大学時代の友人たちに会うまですっかり忘れていた。

 

 大学時代の友達の、しかも仲の深いやつらの言葉は、良くも悪くも重い。

 そいつらには、「お前は病院を飛び出すべきだ」「閉じこもってていいタイプの人間じゃない」という。

 また、友人たちも様々な挑戦を始めていた。転職したやつ、起業したやつ、結婚したやつ。ポジティブな面だけでなく、心を病んで休職したり、家庭の事情で休まざるを得なくなったやつもいた。

 挑戦しているやつらをずっと、ずっと横目に見てきて、ずっと歯がゆい思いをしてきたのに、また俺は閉じこもろうとしているのか。健やかに生きられていることにかまけて、また怠惰に無駄な時間を過ごそうとしているのか。

 

 やはりこうではいけないように思った。結局何も見えてないのだが、それでも飛び出してみようと思った。

 いったん医者を辞め、描きたい絵の描き方を探しに行く。感動の極みを、エクスタシーをこの世にたくさん創り出すのに、自らがヒーローになるために、何ができるか。どうやってやるか。それを探しに行く。

 幸いにもお医者さんは、食い扶持はどうにか稼げる職業だ。明日のことはどうにかなるだろう。

 それよりも、20代の時間を、「仕組みのせい、仕事のせい、誰かのせい」にしてだらだらと過ごすことが一番耐えられない。自ら選ぶならまだしも。

 だから、一旦飛び出そうと思う。色々と期待をかけてくれたり、声をかけてくださっている先生方には大変申し訳なく思うが、いたしかたあるまい。私はこういった人間なのだ。もう、不安定な世界に飛び出してみたいのだ。

怒りに任せた行動はろくなことにならない

 怒りを押し殺すのは、なんか理不尽な感じがする。

 誰かに対して怒って、でもそれを我慢して相手の言うとおりにしてあげたり、自分が折れたりするのは、なんだか負けた感じがする。

 正当に扱われていないということに不公平さを感じたりする。

 

 でも思うのは、その怒りのままに任せてした行動は、基本的に自分の不利益になって返ってくることが多い。冷静ではないし、損得を計算して行動できていないので、「どうしてあんなことしたんだ…」となりがちだ。

 だから、基本的には怒りに任せた行動はしないほうがいいと思っている。

 しかし、怒りをそうやって抑え込み続けて、自分が爆発しないだろうか、ものすごいストレスにならないだろうか、とも思う。

 怒りに任せた行動の結果、よりストレスが増加するので、結局は抑え込んだほうがいいのだが、それにしても蓄積が心配になる。

 

 そんなときにふと師匠の言葉を思い出す。「同じ土俵に乗らない」。

 相手と同じ土俵で戦おうとするから怒るのだ。そこは高みの見物を決め込んでいればよい。最初は上から目線でいい。(慣れてきたら相手への共感を示し、歩み寄るというステップが出てくるが)。

 大体怒りというのは振り返ってみると結構しょうもない理由だったりする。

 そういうしょうもない理由で怒っているときは、「ああ自分はこの程度の次元の怒りで怒っているんだな」とむしろ自分のレベルの低さを反省し、さっさと高みにあがる努力に振り切ればいいのだろう。

 もちろん自分の根幹に触れるような、どうしても許せない怒りもあるから、それは怒っていい。なんでもイエスマンになればいいというものではない。

 でも、大体のことは、自分のレベルの低さが原因で起こったりするものだ。そういうのはほっといてさっさとレベルを上げてしまおう。

 

 と、昨日の怒りを発散させるべく書いている私であった(´-ω-`)

絶対的な味方がいることの重要性

 多くの家庭の養育不全、発達障害、虐待の事例を見てきた。家庭環境に恵まれなかった多くの子ども、その子供たちが大きくなって親になって繰り返される養育不全の連鎖、これらを見てきて思ったことがある。それは絶対的な味方がいることが極めて重要であるということだ。絶対的な味方がいることが、結局はその子の、その人の人生の精神的安定感を爆上げし、強く、優しい人間へと促す。

 

 絶対的な味方というのはどういうことだろう?いろんな定義があるが、今回はこのように定義してみたい。

 「見返りを求められず、どんな自分でも愛してくれる存在」

 

  まず見返りを求められない、というのは実は結構大きなポイントであったりする。

 例えばの話だが、よく若く、しかし情緒不安定な女の子が、ろくでもない男につかまって都合のいい女になる、という光景が見られる。これらの男は、ある種恋愛的なポーズをとりながら、基本的にはその若い女の体目当てに彼女らに近づく。都合よく性欲やその他もろもろの欲求を満たしてくれる手頃の存在を欲しているからだ。

 女の子の側もこれをわかっていながら、しかしそれらの男が与える安心感、肯定感、自分を認めてくれる感が欲しくて、なんとなくずるずると離れられなくなったりする。

 残念ながら、こういった男が与える安心感、肯定感、認めてくれる感は、女の子側がその体や愛情を提供しなくなった時点で崩壊する。つまるところ、何かの行動の結果与えられている承認や愛情は、その行動をとらなくなった時点でなくなってしまう。

 それがあったうえで、どんな自分でも愛してくれる存在、というのは極めて重要な点だ。自分という存在がいろいろ変化していくうえで、その変化を好ましく受け入れてもらえるかどうかは、成長をするうえで非常に重要なポイントになる。

 もし「おとなしい子」が好き、ということになってしまえば、例えばその子がもっと積極的になりたい、と思ったとしても、その自分を受け入れてもらえるかどうかの点で自信が持てなくなり、結果的に変化に対してためらいが生まれてしまう。

 さきほどの見返りを求めない、という点にも通じるのだが、何かの行動の結果愛されている、ということになると、その子から見れば「私に価値があるんじゃなくて、私の行動に価値があるのね」という解釈になる。こうなると、真の意味で絶対的な味方ではなりえなくなるのだ。

 

 どんな自分でも愛してくれる存在がいることで、自分そのものに価値があると信じることができ、また自分の成長・変化に対しても前向きに取り組むことができる。

 現在母親・父親がこれを担えない家族が多い中、社会としてこのような存在を用意していくことが求められている。

一個のアイス、一杯のご飯のカロリーの代償は重い

 社会人になって運動しなくなったせいか、だんだんと体重が増えてきた。

 なので食べる量を控えめにすると同時に、夜中の散歩を気が向いたときにしているのだが、やってみて驚いたことがある。

 

 1時間歩いて消費されるカロリーがたった200kcal程度だと…!?

 

 そう、アイス一個は200~300kcal(場合によってはもっと)、茶碗一杯が私の場合300~400kcalくらい。こう考えると、運動で減らそう!と考えるより、食事の量を減らそう、とするほうがだいぶ懸命に思える。

 よくよく考えると、別に欲しくもないのに惰性で炭酸ドリンクを飲んだり、なんとなくもったいないからとご飯をお代わりしたり大盛りにしていたと思い、最近はそういった「惰性によるカロリー摂取」を減らすようにしている。

 もちろんだれかと食べに行ったり飲み会に行くときはそれも難しいのだが、できるだけ、無理のない範囲で続けるつもりだ。

 

 じゃあ運動が無駄かというと、全くそんなことはない。むしろWHOが週二回の適度な運動を推進しているように、筋肉を使い、有酸素運動で体の代謝を促し、関節を動かしたりすることは、全身状態の維持にとても重要である。

 体重を減らすにしても、食事を減らすだけでは筋肉が落ちるため、それを防ぐという意味では重要であろう。

 

 惰性による過剰摂取、してないだろうか?

 一個のアイス、一杯のご飯の代償は重いぞ。

いつのまにか普通になってしまうことの恐怖

 歳をとるにつれ、人間は段々と安牌な選択肢を選ぶようになる。

 怖いのは、それが知らず知らず行われること。

 自分が昔描いたキラキラした夢、煮え滾るような野望を、いつの間にか失くしてしまうことに気づけない。

 私自身、地方の病院に来て、昔はそもそも医者なんてやる予定なかったのに、いつの間にか専門医を取ろうか、など悩んでいる自分がいる。

 知らず知らず、そうやって安全で確実性の高い道を選んでいくのだ。人間はそうできている。

 だから今回の記事は、ある意味今後の自分への戒めとしても書いている。

 

 忘れるな、あの時の尖っていた自分を。

 思い出せ、自らのキラキラした夢を。煮え滾る野望を。胸をえぐり、目頭が熱くなり、涙が出てくるほどの興奮を。

 普通に迎合するな。周りが善意で止めても、馬鹿だといわれようと、普通からはみ出そうとしている自分を大事にするんだ。

 

 心を奮い立たせ、突き抜け、そして物語を、現実にしよう。この現実を、物語にしていこう。

無為に時間が過ぎることの苦痛

 人間はなにかしらをやっていないと耐えられない。暇というのは薬であり毒である。空白の時間が必要である一方、あまりの空白の時間、なにもしないでいるのはただの苦痛なのだ。

 

 一方本来ならやるべきことがあるのにやりたくなくて、それで時間が過ぎているということもあるだろう。それが単純作業でなく、何かしらのひらめきや感性が必要な作業の場合、無為な時間の虚しさはより顕著に表れる。遅々として進まない作業に対するいら立ちに加え、いたずらに無駄な時間を過ごしている気持ちになるからだ。

 その空白のもどかしい時間を埋めようと、人間は簡単に手を付けられるものに手を伸ばす。Youtubeであったり、スマホゲームであったり、テレビであったり。これらは基本的に受動的でいればよく、ほっとけば勝手に目の前に刺激が流れてくるので、無駄な時間を何か無駄じゃなく見せかけるのにうってつけである。あとで振り返ってみるとなぜ私はあんなだらだら過ごしてしまったんだ…と思うことも多いのだが。

 それこそYoutubeスマホゲーム、テレビで一日が終わっている人は、ある意味何もやることがないのかもしれない。

 新しく物事を始めるにもエネルギーがいる。その最初のハードルを越えられないため、ずっとグダグダした生活を続けてしまうのだ。

 

 このハードルを乗り越えても、今度は継続がめんどくさくなったり飽きがきたりして、やりたくなくなる。そしてまた無為に時間が過ぎる苦痛が生まれ、動画などに手を出し、もとのグダグダ生活に戻る。

 

 こうならないようにするにはどうすればいいのだろうか。

 私自身模索中であるが、一つの解決策として、ひらめきやセンスの必要な事と、単純作業でクリアしていくことを一日の中で組み合わせたらいいのかなと思っている。

 そのためにも、まず単純作業を後回しにしないことを心がけたい。ひらめきやセンスが必要な仕事については、詰まると時間を無駄にしている気がしてグダグダ生活になってしまうリスクが高いのだが、これについてはまだ方法を模索中である。