物語を現実に

この現実世界が、ファンタジーのような感動にあふれた世界になりますように。

自分の感情が迷子になる人たち

 以前より自分の中の軸がない人の話や、自己肯定感のない人の話をしてきた。世の中には自分の中に軸がない人がとても多い。むしろない人のほうが多いのかもしれない。

 別段なくても生きていけるが、幸せ度は圧倒的に軸がある人のほうが高いとは思う。なので以前の記事で、どうやったら自分の軸ができるか、という話をしたと思う。

 しかし、最近子育てに悩む母親の皆様に携わる中で、自分の軸以前に自分がどういう気持ちでいるかがわからなくなっている人たちも少なくないことに気づいた。

 

 例えばみんなの前で怒られたとき、最初は屈辱だし恥だし怒りもあると思うが、そういったことが何度も起こりすぎてくると、自分の感情を感じなくすることで生き延びざるを得なくなる。そうして、元々覚えていた怒りや屈辱といった感情がわからなくなってしまう。代わりに、その何度も怒ってくる人に対する恐怖のみが勝り、怒られないために媚びたり、顔色を見て怯えて過ごすようになる。この図式が定着すると、色々なシーンで屈辱や怒りの感じ方を忘れ、ひたすら人の顔色を見て生きるようになったりする。

 このようにして自分の感情を麻痺することに慣れてしまうと、(本当は違う感情を覚えているにも関わらず)、自分がどういうふうに感じているのかがわからなくなってくる。

 自分がどういう時にうれしくて、自分がどういう時に悲しいのかがわからない。

 これは、例えばDVの夫やすごいパワハラの上司など、力や権力で上位となる人が近くにいて、その人にひたすらいじめられたり弾圧され続けたりすることで怒ることが多い。そんな上位の人の顔色を窺い、できるだけ怒られないようにのみ立ち回り、いじめてくる人の歓心を買うことだけを目的に毎日の生活をしていくことになる。重症になってくると、いじめてくる人が喜ぶことが自分の喜ぶことと錯覚するようになる。ストックホルム症候群も似たような状態だと思うが、こんな状態の人にもちょこちょこお会いする。

 

 以前よりこれらに対する解決策が全く見えていなかったのだが、最近いろんな経験をしていく中で一つ見えてきた。

 まずは、日常の色々印象に残ったことを、できるだけ具体的に、背景も交えて書き出す。そして後でそれを自分自身で、できればメンターと共に見返す。

 後で振り返ってみると、「なぜこういう反応をしたのだろう?」「この時私はどういう風に感じていたのだろう?」と考える余裕がある(リアルタイムではなかなかその余裕はないだろう)。そうやって、自分がその時どう感じていたのか、今はどう感じているか、と、自分の感情を丁寧に感じていくのだ。

 こうして麻痺させ、心の奥の奥にしまい、しまいには失くして迷子になっていた、でも確かに必ずある自分の感情を探しに行くのだ。

 これを繰り返していくことで、少なくとも自分の感情に徐々に気づけるようになってきた人を結構な人数見てきた。

 最重症例の第一歩として、日常の印象的な出来事を書きとめ、それを後で振り返る、というやり方は、まず自分の感情を感じるという意味で、とても有用なやり方と思われた。