物語を現実に

この現実世界が、ファンタジーのような感動にあふれた世界になりますように。

社会への出方

 

 

今日は独り言みたいなもの。

 たまに言われる言葉に、「お前は社会を知らない」というのがある。つまりまだまだこの世界の泥臭いところを知らないとか、失敗を知らないとか、いろんな価値観の人がいることを知らないとか、そういう意味ではないだろうか。

 では一体どうやったら社会に出れるのだろうか。確かに俺は、比較的安全なところで育てられてきた自覚がある。お坊ちゃま、というほどではないが、子どもの頃は社会の荒波から守られて育ってきたのだろうと思う。

 ではいざ社会に出てみろ、世間を知れ、と言われてもどうすればいいのか。どうすれば社会を知ったことになるのか。

 もちろん今は医者として働いている。仕事もしている。でもきっとそういうことじゃない。

 いろんな価値観の人とぶつかりまくって、自分一人が正解ではない、ということを知れという意味だろうか。今までお前は、周りの人が譲りまくってくれているから伸び伸びやっているんだ、本当は我慢させているんだ、とも言われた。確かにそうだと思うシーンはたくさんある。みんながみんなそうだとは思わないが、多分そうやって苦笑いしながら黙ってくれてたり、舌打ちしながら我慢してもらったりしているのだろう。

 人に共感することが苦手だという自覚もある。もともとかなり理屈っぽい人なので、感情面で相手に共感することは結構苦手だ。それを補う努力はもちろんしているが、それがきっと足りないという意味もあるのだろう。未だに、脳のスイッチを入れて気合を入れないと、人に共感するということができないから。

 もっと言うなら、心のどこかで、そこまで共感できるようになろうと思っていないのかもしれない。でも、そうならそれで腹をくくらないといけない。

 プロゲーマーの梅原さんの本、『勝負論』にもあった。弱点や苦手なことは、徹底的に向き合って直すか、それとも気にしないように振り切るか。

 正直どっちがいいのだろう??

 別に理屈と感情のバランスをどうしようと、それがどうその人がとがっていくか、とはあまり関係ない。多分ホリエモンはかなり理屈に振り切れている人だけど、共感や感情の面も多少はあるだろうし、逆に田中角栄はどちらもバランスよくできている人だ。なんとなく、尖らないと存在価値がない、みたいに俺は自分で思っているけど、そんなことはなく、結局自分が必要と思えばやればいいと思う。

 多分、感情や共感の部分をおざなりにするといろいろ大変だとは思うけど、そこを鍛えるくらいならもっと自分の長所を伸ばすほうに力を使ったほうがいい気もする。

 あ、この場合、感情と共感というのは間違いだ。いつも俺は自分自身の感動などは大事にするようにしている。この場合は、他人の気持ちという点だ。

 結局尖ろうと思うために、みんなが通る道を当たり前のように通りたくないだけか。

 まあもしかしたら、もろもろの実現の過程で、結局共感の力がひつようになってくるかもしれない。それから考えるでいいか。多分、今本当に必要かどうか、とか考えてもわりとしょうがない。

 そうなると、どうすればいいか。結局、どうやって社会に出ればいいか、という話に戻る。

 社会に出ろとはどういうことだろうか。立ち上げて、ぶち当たりまくって、挫折しまくって、それでもあがくということだろうと思う。

 でもその具体的な方法がわからない。おそらくは、無意識にリスクを避けるように考えているので、行動の選択肢が制限されているのだろうが。

 ある意味そのための一歩はちゃんと踏み出せている。こうしてブログを書くことだ。

 世間にきちんと発信できている。ある意味、こうやって爪痕を残せてきているのだ。それが、今までの俺と違うところ。

 先輩で一人、地域の人と関わる居場所づくり兼シャアハウスみたいなのを作っている人がいる。あれは確かに、社会に一歩踏み出している。ああいう感じか。

 幸いにも、社会に出る方法は、ネットでもいいのだ。昨今の世界では。だから形にあまりこだわる必要はない。出たいと思う方法で出ろ。

 共感できるようになる、という意味では、もっとアーティスト的な動きではなく、誰かと共同して何かを創る、ほうがいいんだろうけどな。

 

 いや、小説を書くことでどれほどのものか、とか考えてるけど、逆に言葉だけで誰かを感動させられる、奮えさせられるってすごいことだぞ。しかも言葉の選択の洗練具合は、そのままスピーチでの心のつかみ具合にもかなり活かせる。

 そのうえで、社会にたたかれるようなら、たたかれてみて、その中でもまれてみよう。挫折しまくって、知ればいいのだ。目の前のできることをやっていこう。何一つ無駄にはならない。そう信じて。