物語を現実に

この現実世界が、ファンタジーのような感動にあふれた世界になりますように。

評論家はいらない。手を動かせ。

 私はかなりの評論家であったし、今でも割とそこそこ評論家である。しかし、物事を進める際に、評論家はいらない。それは、自ら手を動かすようになって痛感するようになった。

 高飛車に色々というのは簡単で、実行するのは難しい。それはいろんな人がいろんな媒体で繰り返し言っていることだが、正直高飛車に言っているときはそれが全然目に入ってこない。自分は手を動かしている側だと自負しているのもあるし、口を動かすことでなにか価値のあることをしている気になるからだ。

 ところが実際に手を動かす側に回ってみると、実際の行動は全然しないのに口触りのいいこと言ってそれらしき正しきこと言い、あれやこれやと口出し、批判してくる奴はめちゃくちゃうざい。「お前ほんと何様なん!?」みたいになる。

 今までの自分はこうであったのかと思うと正直各方面のあらゆる人に大変申し訳なく感じる。この場を借りて謝罪したい。今までたくさんご迷惑をおかけした。

 

 手を動かす側になって思ったのは、「口で言うより物事を為すのはものすごい時間がかかる」ということだ。

 本当に単純な決めごとをするだけでも、集まって決めよう、プレゼン資料を作ろう、そのために時間を確保して連絡して細かく案を詰めて…とかするだけで、想定の3~5倍くらい時間がかかる。そうやって手を動かしていれば、時間はあっという間だ。

 評論家はその苦労を知らない。見ているだけで、出てきた完成物を見て「これはここがいけてない」「まだまだだね」みたいに批判する。このかけてきた時間に対してのリスペクトがないところが、一つかなり殺意の湧くポイントなのではなかろうか。

 だからせめて、自分が評論家になっているときは、せめて相手の苦労をねぎらってあげようと思う。そこにかけてきた時間、努力に対してのリスペクトは絶対に払わないといけない。

 

 手を動かす側になって、今後また評論家だけの人生には戻りたくないと思った。ダサいし、申し訳ないし、なにより結局むなしい。自分が偉そうなこと言って何かやった気になってるけど、結局心の中でそれは満たされてなかった。だから、今後の人生、評論家になってしまうことはあっても、絶対に手を動かし続けようと思った。