物語を現実に

この現実世界が、ファンタジーのような感動にあふれた世界になりますように。

休みの日は有意義に時間を使いたい、の罠

 毎日の生活でだらだらする時間というものがある。当然人間にはこういった緩んだ時間が必要であり、私も日常生活に大いに取り入れている。

 しかし、私が大学生の時にやっていたような、せっかくの休み、色々やろうと思って結局前日夜更かしし、次の日夕方に起きて、結局やろうと思っていたことが全然できなかった、みたいなことを経験した人は多いのではなかろうか。

 これ自体は夜更かしと早起きの問題もあるのだが、「ああー、結局だらだらして過ごしてしまった、もっと有意義に使えば…」という後悔が大いに残る。

 

 この後悔はじゃあ次に生かされるかといえばそうではなく、基本的に次の週も、その次の週も延々繰り返すことが多い。私自身そうであったし、今でもそうである人は多いのではなかろうか。

 最近思うのは、こうやって「有意義に時間を使いたい」「効率よく時間を使いたい」という気持ちファーストでは、結果的にだらだらしてしまう。しかもそれは、普段の生活で時間をうまく使えていないからこそこういう気持ちが出てくるわけで、毎日上手に時間を使っている人は休みの日も効率よく時間を使っている。

 毎日ランニングをする、ブログを書く、筋トレする、一時間勉強する、などの習慣がある人は、休日でもそれを実行しようとするので、他の習慣に合わさる形で、結果的に早めに起きて、有意義に時間を使っているように思う。

 最近私もブログを書くこと、仕事を早め早めに片付けていくこと、などが少しずつ習慣になってきたせいか、休みの日も少しずつだらだらする時間が減ってきた。「有意義に使おう!」と意気込んで、というより、色々な習慣を継続しようと思ったら結果的にこうなった形だ。

 また、その習慣の数が多くなれば多くなるほど、必然的に日常のリズムが決まってくるので、(余白の時間ももちろん非常に重要だが)結果として毎日充実した時間を過ごしている形になる。

 

 意気込んで休みの日は!とするのでなく、まずは普段の日常の生活スタイルにこそ、休みの日を充実させるカギがあるのだ。

奮い立たせること

 奮い立たせること。

 人が何かに感動し、極まり、自らも、我々もと奮い立つこと。

 古来より祭りの場、戦の前、もしくは日常の一コマでさえ、何かに触発され、人は心が奮え、感動し、極まり、奮い立ってきた。

 そんな奮い立つ瞬間が大好きで、興奮が巻き起こり、血肉湧き踊るその瞬間がたまらなく好きで、だから私はそれをこの世界に創らんと願った。

 医療をやっていても、教育をやっていても、私はこの奮い立つ瞬間が好きだ。

 じっくり腰を据えてやるのも非常に大事で、そういった息の長い活動をされている皆様を私は本当に尊敬している。頭が下がる思いだ。

 しかし、私の感動の極みは、ここにあると感じた。

 心の瞬間風速を加速し、暴風のような興奮を巻き起こす。

 生を勢いづける、昂る瞬間を演出する。

 私はそういう存在でありたい。

 人を奮い立たせ、心を揺り動かし、極みへと世界を誘う。

 

 暴風のような、感極まる瞬間を。

 心の瞬間風速を最大に。

 奮い立て。

本日で100記事目:感慨深い

 元々このブログは色々な要素が重なり始めたものであったが、そのうちの一つが、「自らが苦手とする継続力を高めるため」であった。

 今まで長期で何かを続けるということが苦手で、とにかく初めてはすぐに飽きるということをこの人生でひたすらひたすら繰り返してきていた。

 このまま何も継続できない男なのはまずい。そう思い、文字を書くことは苦ではなかったため、ブログをはじめてみようと思い立ったのだ。

 一応当初の目標として、とりあえず100記事書こう。そうすれば色々と見えてくるものもあるに違いない。そう思って2月から始めた。

 そして今日、ようやく100記事目である。たくさん気づいたこともあるし、正直もっと記事のクオリティ上げられただろ、とか思うところはたくさんある。でもこれだけ続けられて、私の中で、2月の時は焦燥と諦めしかなかった「継続力」ということに対し、少なからず自信が湧いていることが最も私の財産である。

 継続力を身に着けるためには、何かを継続するしかない。矛盾だらけであるが結局はそういうことだ。そして、私はどうしてもこれができなかった。

 だから今、私がこうして100記事続けられたのは、素直に嬉しい。本当に嬉しい。

 もっと見やすく、とかもっとまとめて、とかもっと記事のクオリティを上げて、とかやるべきことはたくさんある(なんせ私はこのブログの記事はほとんど推敲していない)。

 でも、とにかく、まずは100記事書ききった。偉い、私。偉いぞ、私。

 

 さて今後このブログをどうしていくかだが、せっかく習慣化したので、続けてみたいとは思っている。今度は記事の数に目標を置くというよりは、一個一個のクオリティを上げることに注力してもいいかもしれない。

 でも、サクッと書きたいときはサクッと、それも大事に。重い負担に耐えられるようなキャパがあるときはざくざくと書こうと思う。

 大体の数値目標があったほうがいいのだろうが、どうしようか。んー。とりあえず1500pvくらいを目指すか。あまりイメージがわかないけど、目標は小さくいこう。

 

 というわけで、今後ともこのブログをよろしくお願いいたします。

 

まぐろ

評論家はいらない。手を動かせ。

 私はかなりの評論家であったし、今でも割とそこそこ評論家である。しかし、物事を進める際に、評論家はいらない。それは、自ら手を動かすようになって痛感するようになった。

 高飛車に色々というのは簡単で、実行するのは難しい。それはいろんな人がいろんな媒体で繰り返し言っていることだが、正直高飛車に言っているときはそれが全然目に入ってこない。自分は手を動かしている側だと自負しているのもあるし、口を動かすことでなにか価値のあることをしている気になるからだ。

 ところが実際に手を動かす側に回ってみると、実際の行動は全然しないのに口触りのいいこと言ってそれらしき正しきこと言い、あれやこれやと口出し、批判してくる奴はめちゃくちゃうざい。「お前ほんと何様なん!?」みたいになる。

 今までの自分はこうであったのかと思うと正直各方面のあらゆる人に大変申し訳なく感じる。この場を借りて謝罪したい。今までたくさんご迷惑をおかけした。

 

 手を動かす側になって思ったのは、「口で言うより物事を為すのはものすごい時間がかかる」ということだ。

 本当に単純な決めごとをするだけでも、集まって決めよう、プレゼン資料を作ろう、そのために時間を確保して連絡して細かく案を詰めて…とかするだけで、想定の3~5倍くらい時間がかかる。そうやって手を動かしていれば、時間はあっという間だ。

 評論家はその苦労を知らない。見ているだけで、出てきた完成物を見て「これはここがいけてない」「まだまだだね」みたいに批判する。このかけてきた時間に対してのリスペクトがないところが、一つかなり殺意の湧くポイントなのではなかろうか。

 だからせめて、自分が評論家になっているときは、せめて相手の苦労をねぎらってあげようと思う。そこにかけてきた時間、努力に対してのリスペクトは絶対に払わないといけない。

 

 手を動かす側になって、今後また評論家だけの人生には戻りたくないと思った。ダサいし、申し訳ないし、なにより結局むなしい。自分が偉そうなこと言って何かやった気になってるけど、結局心の中でそれは満たされてなかった。だから、今後の人生、評論家になってしまうことはあっても、絶対に手を動かし続けようと思った。

断酒会に参加してきた

 断酒会というものに参加してきた。

 一応付け加えるが、私自身はアルコール依存ではなく、医療者側としての参加である。今までそういう存在があるということは知っていたが、実際どういうものなのだろう、ということは気になっていた。

 

 いくつか思うところはあった。まず、例会はとりあえず1時間とそこまで長いものではなかった。一人一人が簡単にそれぞれ話して、それで終わりと、結構あっさりしたような印象を受けた。

 大体15人ほどいたが、これは普通より大体多いのではなかろうか。

 断酒の継続期間は人それぞれで、1か月くらいの人もいれば、年単位の人もいた。

 同時にアルコール依存の家族の方も例会には参加していて、本人たちより家族たちのほうが不満を爆発させていたのは印象的であった。

 そして、共通してみられることとして「わかってもらえない」「孤独」といったものから逃げるために、お酒を飲んでいる印象であった。

 たばこ、薬、ゲーム、SNS、ギャンブル、セックスなどでもそうだが、人間はわかってもらえない寂しさ、孤独感からこういった依存物質・行為にはまってしまうことが多い。

 これらは人が抱えている「孤独感」「絶望感」「不安感」など、マイナスの感情をつかの間癒してくれる。決して悪いものではないのだ(薬は犯罪だが)。

 だから、これら依存症の治療において大事なのは、この「わかってもらえない」「孤独感」を癒してくれるような、そんな人間関係や社会生活を作っていくことだ。

 まず自分のことをわかってくれる人を作るのは非常に難しいが、結局それが依存症の治療のカギになる。

 実際に断酒会に参加されてきた人たちで、「断酒をしてから家族との会話が増えた」「子どもが話してくれるようになった」「妻や子供の笑顔が何より大事だと気づいた」など、今ある人間関係のありがたさに気づき、改めて断酒を継続しようと心に誓った、という人は多かった。

 解決には長い時間がかかるかもしれないが、結局は自分が大事にして、自分を大事にしている人間関係が重要なのだろう、そう感じさせてくれた断酒会であった。

習慣の力は恐ろしい

 習慣の力は恐ろしい。それを実感するようになった。

 前から悪い習慣の力は感じていた。ついついだらだら起きてしまったり、ついついYoutubeを見るのが止められなかったり。しかし今回は良い習慣の方で実感した。

 というのは、今日は実は深い考え事をしていたので、ブログを書くのはお休みしようかと思っていた。しかし、一度その考え事が途切れると、「やっぱりブログ書いたほうが継続性あるんじゃね?」「なんか書いてないともやもやするな…」「やり残した感が半端ないぞ…」みたいに感じてしまい、結果今こうしてブログを書いている。

 なんだかんだ淡々と続けてきた結果、とうとうやらないとちょっと気持ち悪いな、というところまで習慣化できたのだ。これは自分の中では(おそらく)初めての経験であり、めちゃくちゃ感慨深い。ずっと継続性や、習慣というのは自分の中で課題であり、非常に苦手意識があったのだが、今回ようやくとっかかりが見えてきたような気がする。

 

 今は色々なことを習慣化しようとしている。やり切る、前倒しでやるなどだ。一つ習慣化ができたので、まだまだ自信はそこまででもないけど、今回もなんとなく、ほんとになんとなくだけど、できるような気がする。少しずつ挑戦していきたい。

 と、同時に、最近はやはりぶち抜く力が結構大事なんじゃないかなあとも感じている。結局、自分がかっこよく、強く、尊敬される人になるのに、どこかでぶち抜かないといけないのだと思った。何でやるかをまだまだもやもやしているが、これはもしかしたら考える期限を決めて、それでやるべきなのかもしれない。6月中かなあ。

自分の友達が自分の苦手な人と仲がいいともやもやする…という感情

 自分の友達や仲のいい人が、自分の苦手な人や嫌いな人、自分のことを邪険に扱う人と仲がいいと、結構もやもやすることってあるんじゃないかと思う。これは決して不自然な感情ではないように思う。

 しかし、これを自分の友達や仲のいい人に「あの人と仲良くしないで!」というのは全然筋が通らない。それを決めるのはその友達だし、自分の好き嫌いで友達の交友範囲を狭めるのは非常に身勝手だと思う。

 しかしもやもやする、なんかいい気分じゃない、というのは事実なわけで…。せめて自分の見えないところでやってくれたら、と思うのは自然の感情なんではなかろうか。その友達が自分のことを陰口言ったりないがしろにしたりするのでないならば、見えないところでやっているなら特に自分の気持ちがごちゃごちゃになることはないのではないかと思う。

 

 なぜ今回そのような話をするかというと、自分が「友達」の側として話を受けたからだ。もやもやする、という気持ちを正直に打ち明けてもらい、かつ別にコントロールしたいわけでもなく、それでどうこうしてもらおうなどおこがましいこともわかってる、だから言うのもすごく迷った、と言われた。

 仕事の関係上の話でもあったので言う必要もあったのだろうが、実際これを「友達」の人に言うのは非常に言いにくいだろうと思う。

 それで別の人と仲良くするのを止めるわけではないが、その人が(今回の件ではもやもやしているのはその人だけではないが)もやもやしているその気持ちを、しっかり受け止めることが大事なのかなあとは感じた。

 どちらとも仲良くしたいと思っている「友達」側の立場からすると、それでほかの人と接するのを控えたりとか、そういうのは不健全なように思うのでそんなことはしない。でも、せめて見えないところで仲良くするほうがいいのかなあとは思った。みんなのもやもやをあえて引き出すように行動することはあるまい。そういう意味でも、みんなのもやもやを知っている、それを感じている、ということだけでも意味があることのようには思った。